
2025年10月16日、ゲームクリエイターとして多くのファンと業界関係者に愛されてきた 板垣伴信(いたがき とものぶ) 氏がこの世を去った。
享年 58 歳。
彼の訃報は、静かなる衝撃となってゲーム界に響き渡った。ここに、彼の生涯と人となりを振り返り、心からの追悼をささげたい。
生い立ちと学びの道
板垣伴信は、1967年4月1日、東京都にて生を受けた。
彼の父親は東芝でコンピュータ技術に関わる技術者であり、その影響もあって、幼い頃から電子機器やプログラミングの片鱗に触れる機会があったと伝えられている。
また父親は剣道を嗜んでおり、少年期の板垣も剣道を学んでいたという記録が残る。
少年時代、板垣はアニメやロボットものの世界に憧れ、LEGO(積み木など)でロボットを組み立てたり、自作ゲームを試行したりするなど、早くから創作欲と技術欲を示していた。
中学生〜高校生になると、友人と共に“裁判役”として兵棋(戦略盤ゲーム)をプレイし、自動計算プログラムをつくるなど、ゲーム的思考の芽を育んでいたという。
高校を終えた後、板垣は 早稲田大学の法律学部に進んだ。
ただし、大学生活は平坦ではなかった。
彼自身の語るところによれば、麻雀に没頭したこともあって、在学期間が長くなり、単位取得に時間を要したという報告もある。
しかし最終的には学業を終え、1992年には大学を卒業。同年、ゲーム会社テクモ(Tecmo)に入社する道を選んだ。
テクモ入社後、最初はグラフィックあるいは補助の役割でスタートしたが、その後プログラミングやゲーム設計の才能を発揮し、着実にポジションを上げていった。
家族構成
公に知られている範囲で、板垣伴信は 既婚 で 一人娘 を持つ父親であったとの情報がある。
メディアや公開資料において、母親・父親・姉妹兄弟などの詳細な家族構成についてはほとんど触れられておらず、彼の公と私の領域には一定の距離が保たれてきた。
また、板垣が“硫酸顔”“墨鏡”をいつも身に着けていたのは、皮膚炎症などの影響で顔の傷跡があったためとの説があり、そのルックスと語られ方が彼のパブリックイメージと重なり、しばしば注目されていた。
キャリアと作品、葛藤の軌跡
板垣伴信がゲーム業界で名を馳せるきっかけとなったのは、1996年にリリースされた『DEAD OR ALIVE(デッド オア アライブ/生死格闘)』シリーズだ。

この作品は当時の3D格闘ゲーム市場において革新的なシステムと、見た目のインパクトを併せ持つ要素で注目を集めた。
特に、“乳揺れ”表現(キャラクターボディの揺れ表現)は、見た目の派手さを追求した板垣なりの「魅せるゲーム」の象徴ともなった。
その後、板垣は『忍者龍剣伝(Ninja Gaiden/忍者外傳)』シリーズの復興にも携わり、ハードで手ごたえあるアクションゲームとして根強い人気を得た。
彼は “Team NINJA(忍者組)” のリーダーとして、同僚や部下を引き連れて高難度アクションの方向を切り開いていった。
ただし、輝かしい成果の裏には、葛藤や対立も少なくなかった。
2008年、板垣はテクモの経営陣と報酬や契約などを巡る訴訟を起こし、同年7月にテクモを退社することを発表。

特に、報酬として 1億4800 万円を請求したとの報道もあり、後には和解に至ったとされる。
退社後、彼と多くの Team NINJA のスタッフたちは新たな道を歩み、「英灵殿游戏工作室(Valhalla/後に英霊殿)」を設立。
そこで開発されたタイトルのひとつに 『悪魔三人组(Devil’s Third)』 がある。 この作品はアクション性とシューティング要素を混ぜた野心作だったが、商業・評価双方で苦戦したとの声もある。
さらに、2021年には自身の名を冠した新会社 板垣ゲームズ(Itagaki Games) を立ち上げ、新たなゲーム制作への意欲を示したが、発表されたタイトルは完成に至らず、2024年には会社解散の報も伝えられている。
性格・人柄――激情と繊細が交差する男
板垣伴信に対する評価は、賛否両論が混ざり合う。だが、そこにこそ彼の真価と人間らしさが垣間見える。
強烈な自己主張と毒舌。
メディアやインタビューで見せた、過激な発言や挑戦的な態度は、有名な“墨鏡”“硫酸顔”のイメージとともに人々の記憶に残る。
だが、そうした表現は単なるパフォーマンスではなく、彼なりの信念の表明であり、自己と作品に対する揺るぎない自負を示すものであった。
一方で、緻密さと職人性も併せ持つ。
過剰なまでにこだわる演出、アクション設計、キャラクター動作、ビジュアル面の調整など、彼は「魅せるゲーム」をつくるために細部にまで目を配った。
ゲームの外見的魅力に偏るだけでなく、操作感やバランスにも妥協を許さない姿勢は、多くの開発者やファンから称賛を受けた。
また、孤高な反骨精神が彼の核にあったようだ。
主流や風潮に迎合しない言動は、しばしば誤解を生んだが、それは彼が「自分の道」を貫きたいという意志から来るものだった。
仕事仲間たちとの深い信頼関係を重視し、部下を引き連れて新天地に踏み出す勇気を持っていたのも、その強さゆえといえる。
私生活では、趣味として写真撮影を愛したことも知られており、作り手として感性を豊かに育む時間を持っていたとされる。
最後の言葉と遺された思い
板垣伴信は、逝く直前に自身の Facebook にて最後の言葉を投稿した。
それはあらかじめ託された人物によって公開されたものだという。
その文面には、
「生命の灯が、今、消えようとしている」
「人生は戦いの連続、自分は信念に従って戦い抜いた」
「ファンの皆にこれ以上新作を届けられず、すまない」
などの思いが綴られていた。
この言葉の重みは、彼の作品を愛してきた者たちの胸に深く刺さる。
創造者としての情熱と、しかと生きた証を、我々は受け取った。
結びに代えて――レガシーは消えず、記憶は光を放つ
板垣伴信は、その存在そのものが、ゲームという表現手段を通じて“挑戦”と“美学”を体現し続けた人物であった。
彼が創り出した数々のタイトル、そしてその背後にあった熱意と矜持は、今後も多くのクリエイターやファンたちに影響を与え続けるだろう。
彼が遺した言葉、その痕跡、そして彼の“熱さ”を忘れずに、私たちはこれからも彼の作品を愛し続けたい。闘いを終えた者に、心より哀悼の意を捧げる。
どうか、安らかに。


コメント